続今時の野辺物語

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1.宝 珠 庵 野辺四一五番地


前田小学校の裏で、井草鈑金の隣に茅葺屋根の家がある。
昔は、宝珠庵というお寺であったそうな。
臨済宗建長寺派で、普門寺の末寺であった。
創立は康永二年(興国四年(1343年))で開山は心空祖円(明徳元年(1390年)三月四日入寂)で開基は大隅土佐守 という。
世代は十三世続いた。
経営困難のため昭和三十七年(1962年)九月四日普門寺へ合併した。
現在は廃寺となっている。


2.新開院に伝わる絵馬
職人絵馬
宝暦二年(1754)、当村(野辺村であろう。二姓とも野辺村の姓)
の市川忠義、山下惣助の奉納である(75×135センチ)。
巡礼絵馬
「江戸亀井町(現往の中央区・千代田区)吉村久右衛門」の、元禄十五年壬午歳(1702)九月九日報納で、保存のよい、製作も丁字なものがある(70×90センチ)。
歌舞伎絵馬
天保四年竜舎葵已(1833)立秋如意珠日、願主当村鈴木利兵衛の奉納(56×96センチ)。
南蛮船絵馬
寛文十年庚戌歳(1670)菊月十日奉納である(110×150センチ)。
奉納者は、野辺村の宇江五兵衛・西山権七・小岩井庄左衛門・宇江権八・浦野太郎・同助三郎・小河村の小又八衛門以上秋川市域の住人7人にハ王子千人町の野沢伊衛門が加わって8人である。

3.新開院のお地蔵さん


野辺の新開院薬師堂境内には鉄柵の中に安置された二体の丸彫り地蔵立像がある。
一体は享保十八年 (1733)の造立で、他の一体は、台石正面に「施主平松祖仙建立 昭和四十八年九月」と記された現代の地蔵であ る。
平松師の話によると、子供などのいたずらもあって旧い地蔵の首が欠け、傷みもはげしくなったので、地蔵を再 建して堂を作り柵を設けた。
地蔵の建立は、享保と昭和とも葵丑年となったが、これはまったくの偶然である、とのことであるという。


4.野辺村名主弟の負傷事件

 文化十四年(1817)六月十五日に事件は起こった。
 当日は野辺村の牛頭天王の祭礼で、村人たちが大勢集まって 湯立や神楽等をして楽しんでいた。
これらの神事は前々から戸田七内知行所名主の金蔵方で世話してきており、当日 も神酒などを振舞っていたが、金蔵が所用のため祭の差配を弟の銀蔵に名主名代としてまかせ、出かけていった。
そ のうちに、酒に酔った村入たちと銀蔵の間で口論が始まり、あげくの果てに銀蔵は打ちのめされて気絶してしまっ た。
帰って来て驚き、かつ怒った名主金蔵は弟銀蔵を隣村高月村(八王子市)の本道外科医師の沢井清江に手当をして もらうと同時に親類を寄集め、また、同村の内藤知行所名主幸肋とも相談の結果、地頭所へ訴え出ることにしたので ある。
医師の診断では、銀蔵は頭に長さ二寸余りの深傷を受け、また、首にも痛みがあり、首には「活血」の薬をつ け、頭の傷は酒で洗って縫い、椰子油と玉子の白身を混ぜ合わせた膏薬を塗り、頓服に「白朝散」と煎じ薬を与え た。
余談だが、弟の傷を手当してもらう際、医師の沢井清江に、けが人がどのようになっても「其許江御苦労相掛ケ 申間敷候」という一札を入れて手当をしてもらっている。
 一方、金蔵が地頭所へ村人の乱暴を訴え出るという知らせが、十六日夜明けごろ野辺村の相給名主幸肋から組合村々 にも届き、平沢村名主与兵衛らは驚いて野辺村へかけつけ、金蔵に出訴を思いとどまるよう説得したが、それをふり 切って金蔵・幸助の両名主は十六日の早朝出府して行った。
そこで、村人たちに名主を引き戻すよう説得したが、村 人たちは動かなかった。
 名主両名の訴えを聞いた戸田七内知行所では、十八日、出役高橋安兵衛が野辺村にやってきて、村民一人一人を個 別に吟味するという厳しい取調べを行った結果、村内百姓の九戸衛と米蔵・寅蔵の三人を加害者と断定し、この三人 及び五人組と組頭一同に対し、来る二十一日に出府し吟味を受けるよう命令して帰って行った。
 意外に厳しい成りゆきに驚き、あわてた村人たちは、平沢・二ノ宮・原小宮・小川・高月・瀬戸岡・雨間の七か村 の名主たちに間に立ってもらい、詫びを入れて内済示談にしてもらうよう金蔵へ頼み込んだ。
酒に酔っていたとはい え、皆がこの事件を傍観していたことは申しわけなかった、という理由である。
 四五名の惣百姓の詫びが効いたのか、金蔵の方でも内済に同意し、事件は落着をみたのであった。


5.幻の鉄道

 現JR中央線、当時の甲武鉄道株式会社は、明治二十二年四月新宿を起点として武蔵野を一直線に走 って、当時の柴崎村立川駅まで建設されて開業した。
立川より甲府に至るには険阻な関東山脈及びその支脈を横断しなければならない。
ここに幾多の試案が試みられた模様であった。
その第一候補とされたのが、立川より今の昭島市、秋川市、五日市町、桧原村を通り、 ここから山梨県北都留郡西原村に隧道で抜けて塩山市に至る路線であったと いう。
これについての西武新聞紙昭和五十七年二月十三日のニュースに「多摩開発の新事実発見」の記事によれば、 昭島市東町の旧家紅林家で最近発見された文書中に、甲武鉄道は多摩の有力者である、
   瀬沼伊兵衛   西秋留
   杉浦義方    立川
   砂川源五衛門  立川
   紅林徳五郎   昭島
   田村半十郎   福生
   指田茂十郎   羽村
   西川敬治    八王子
等を協力員に要請している事実がある。
この協力員は鉄道用地買収が主任務であった。
当時八王子は横浜への輸出 絹糸取引の中心地で、また絹織物の産地として市場は股賑を極めていた。
また絹商人として裕福者も多数いたはずだ ったのに鉄道用地買収が主任務である協力者が、八王子市でただ一人であって、その他は総て西多摩関係者であるこ とは、当時の甲武鉄道の意図をよく物語っている。
これを現地に見るとき北都留郡西原村は桂川の最上流に位置し、標高は高いが桧原村とは峠一つを隔てるのみである。
かつ、塩山市とは背腹で今の小仏、笹子より隧道の長さもはるかに短い。
特に笹子のスイッチバックの必要がな いはるかに優れた路線であることがわかる。
しかるに五日市町の有力者は挙って煤煙養蚕に害あり、草葺き屋根で火災の虞ありとして強力に反対した。
甲武鉄道では急拠難工事がわかつていながら現在の路線に変更したとい う。
 このほかにも幻の鉄道の噂は立っては消え、また立つという状況であった。
明治二十九年には五日市−東京赤坂を 結ぶ東五鉄道、明治三十三年の五日市−八王子間の電気鉄道、大正七年の同線五日市−八王子間の電気鉄道等があ る。
いずれの鉄道も秋川市域を通過する計画がなされていた。


6.五日市鉄道余談

 五日市鉄道は大正十四年四月二十日開業され、沿線はお祭り気分で沸いた。沿線それも相当遠方から 汽車にただで乗れるということで、子供等が集まり、無蓋の10トン貨車に鈴成りとなつて五日市、拝島間を往復し たのであったが、ここに一人の篤志家が現れた。
その人は牛沼村の坂本安兵衛氏である。
彼はこの文明の利器五日市 鉄道が敷設されたことに一念発起し、五日市鉄道東秋留駅より武蔵岩井間の七駅を桜花で埋め尽くそうと自力でそめ い吉野桜を買い入れて数十本宛各駅に自らの作業で植付けたのであった。
今から三〇年前、昭和二十年代は樹勢が盛 りの時代で、五日市線各駅は桜花に包まれて実に見事なものであった。
その後の歳月で樹勢も衰え、古木となって、 今見る影もないようになったのであるが、一部はいまだに春ともなれば見事な花を開いて、我々の目を楽しませてく れている。


7.五日市鉄道時刻表

五日市鉄道が開通した大正14年当時の時刻表です。
クリックで拡大↓


8.幻の奥多摩循環鉄道

 代議士並木芳雄氏が未だ在任中であったので、昭和二十五・六年であったと思う。
 東急電鉄で は、当時急ピッチで工事が進められている奥多摩湖に着目し、東急電鉄五島慶太氏は奥多摩湖の完成を見越し、現南 武線、青梅線、五日市線の払下げを受け、奥多摩を東京の奥座敷にする構想を固め、新宿を起点とし、小田急線登戸 駅で南部線に切替え、立川で青梅線に直通し、拝島駅より五日市線五日市に至り、さらに五日市より五日市線を延長 して桧原南谷を通って奥多摩湖南岸に出て、奥多摩湖を遊覧船で横断し、奥多摩湖築造の材料運搬船を活かして小河 内、氷川、青梅に出る新宿、奥多摩循環直通電車を計画し青写真を作成し、なお遊覧、宿泊施設も数多く設け、当時 国鉄に従事していた職員も総てを引き継ぐ予定で、該当線の払い下げ方を推し進め、現地に人を派し、遊覧、宿泊施 設場所の調査、住民の意向の調査と共に土地の有力者との接触を計った。
こうして最後の段階に至って、五日市町議 であった某氏に接触したところ、言下に、「鉄道が敷けると人気が悪くなるから駄目だ」と断わられた。
しかし人気 が悪くなる意味は不明であった。五島氏はなお諦めかねて三路線の払下げを次国会に図ったが、当時の代議士並木芳 雄氏、国鉄労組八王子支部の払下げ反対の一大キャンペーンで国会も否決し、遂に断念した。


9.東秋留村役場庁舎


昭和30年4月1日に多西、東秋留、西秋留村が合併し秋多町が誕生した。
本庁舎は暫定的に野辺539番地の東秋留村役場(木造洋館モルタル塗り瓦葺き二階建て)を使用した。
東秋留村役場のあった場所は、番地から推測すると、今の多摩信用金庫秋川支店辺りと思われる。





以上の出典は、あきる野市東部図書館エル所蔵の「秋川市史」より



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