野辺地名考

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野 辺(ノベ)
野辺(ノベ)は雨間の東隣、秋川の北岸に位置している。
天正二年(一五七四)の『讃岐役所当番衆覚書』には、その筆頭に野辺があらわれるので、
戦国時代にすでに存在が知られている。
地内にある臨済宗の神護山普門寺は、古刹で開山心源希徹は応永十年(一四一一)十月十三目寂すという
(「新編武蔵風土記稿」)。

                  普門寺
これからみると、すくなくとも野辺は十五世紀には村落が形成されていたとみられる。
 江戸時代は初め天領であって、幕末には、内藤、戸田両氏の知行地であった。
 安政二年(一八五五)書上(萩原家文書)によれば、
  村 高     二四五・三石
  家 数       五二軒
  人 数   男  一一七人
        女  一〇一人
        合計 二一八人
        馬    四匹
とある。
 明治五年(一八七二)神奈川県、同十一年(一八七八)西多摩郡に所属、同二十二年(一八八九)東秋留村
の大字となり、現在に至っている。
 野辺は武蔵七党のうち、横山党に属した野部(野辺)氏と関連があるかもしれない。
『武蔵武士』(渡辺世祐・八代国治共著)によれば、横山党の一族藍原氏より、野部氏は分かれたが、
野辺は西多摩郡東秋留村の大字にその名があるとして(六五頁)、野部氏と野辺との関連を示唆している。
なお太田亮氏の『姓氏家系大辞典』には、野部氏の条に
  小野姓横山党、武蔵国西多摩郡野辺邑より起りしか、或いは小野姓
  なるより野部と云ふか(第三巻、四六二二頁)。
としている。
 いずれが正しいか即断しかねるが、横山党の野辺氏が野辺と関連があるとすれば、すぐ隣に居た小川氏や
二宮氏との関係は、どうなっていたのであろうか。
小川氏も二宮氏も西党の有力な武士であって、横山党とはライバルのはずである。
なお横山党系図によれば、野部(野辺)を最初に名乗った義兼の子兼光は、山崎を名乗っている。
山崎は今の町田市山崎町であろう。
野辺氏は一代で山崎へ移っていったのであろうか。
その間の事情は詳らかでない。
 野辺の地名は各地にある。
明治十八年(一八八五)の『地名索引』(内務省地理局編)には三カ村、二十万分の一地勢図によ
る大字の数は四ヵ所ある。
 野辺は古いことばである。
このことばは、『万葉集』に何カ所もみられる。
野辺は古くは「ノヘ」であった。野とはどんな地形をさしていたことばであろうか。
『日本国語大辞典』にある野の説明を要約すると、野とよばれている実際の土地の状況などをみると、
もと「はら」が広々とした草原などをさすのに対して、「の」は低木などの繁った山裾、高原、台地上の
やや起伏に富む平坦地をさして呼んだものかと思われる。
とある。
 野辺の辺(べ)は、「へ」が普通の形で、時に「べ」の形でも用いられることもあって、意味は
「あたり、ほとり、そば」ということである(「日本国語大辞典」)。
野辺は「野のほとり」「野のあたり」ということになろう。
 前述のように、野辺は野辺氏が来往して野辺とよんだのか、野辺氏が地名をとって名字としたのか
さだかではない。
ただ平安時代の末頃から鎌倉時代にかけて台頭した武士団の多くは、地名をとって名字としている。
野辺氏もおそらく地名をとって名字としたのではあるまいか。
そうだとすれば、初代義兼の出た十二世紀には、野辺村があったことになる。





以上の出典は、あきる野市東部図書館エル所蔵の「秋川市地名考」より



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