野辺北東部小字(コアザ)考

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1 下 目(シモダ)  一番地〜一三七番地、一四八番地ノ一〜一四八番地ノニ、一八七番地〜一八九番地
 野辺の東端に位置する。
 国鉄五日市線東秋留駅の東南で、市立前田小学校が西南に建設されている。
 五反田 一反田、三反田などとともに、五反田という地名は各地に散見される。
 近くでは町田市の旧鶴川村大蔵に「五反田」がある。
 国鉄山手線に五反田という駅があるし、駅をはさんで「東五反田」と「西五反田」に分かれている。
 駅名は明治四十四年(一九一一)駅が開設されるときに、字名からとったという。
 このような地名は、開墾などしていった場合の耕地分配の名残だという。
 柳田国男翁は「字の名前としては一番割、二番割または丑年縄受というような形で残っているが、それから
 また一筆の大きさによって五反田・三反田という」(『地名の研究』角川文庫、九四頁)としている。
 そうした耕地分配の名残とともに、また五反ぐらいの面積のある田などあった場合に、その田の持主が、
 「五反田」というようによんだ場合もあったのではないだろうか。
 五反田の場所は、前田小学校の道をはさんだ東側にある田をいう。
●腰 巻(コシマキ) 五反田の北に接している土地をいう。
 腰巻はいうまでもなく、婦人が和服の下に腰から脚部にかけてまとう布、「ゆもじ」とか「けだし」、
 「おこし」などといわれるものをいう。
 本来は室町時代に、宮中の女房の礼装から始まり、武家社会に移ったもので、やはり武家社会でも
 上級夫人の礼装であった。
 腰巻という地名は、地形が少し高くなっていて、腰巻をまくように、高い所がまいた形になっている
 土地をさしている。
 福島県に多い地名という。
 また山裾などの牧揚も腰牧というのであるが、ここの地形では牧場の方ではない。
●おえい塚 前田小学校の東側に三角の田があって、その真中に塚がある。
 言い伝えによると、「おえい」という女性が、田んぼの水争いにまきこまれ、夜、不意打にあって
 殺されたという。
 いつのことか不明であるが、その「おえい」とよばれた女性を葬ったのが、この「おえい塚」だという。

2 宅地付(タクチヅキ)  一四八番地ノ三〜一四八番地ノ四、一九七番地〜四二七番地ノ八
 都道東秋留停車場線をはさんで展開している、野辺の中心住宅地区である。
 古くから宅地が多かったからつけられた地名であろうか。
●堂 沢(ドウサヮ) 野辺三六一番地付近、八雲神社のお堂があったので堂沢という。
 神社の前に小さい沢があって南へ流れていたが、今はなくなってしまった。
●こうせきど 二八六番地付近の小地名で意味不明。
 付近から弥生式土器が出土した。
●またぎっとう 二〇九番地の道路が二またになっている所。
 南流している小川に橋がないので、夏など水が出ると、またいで渡らなければならなかった。
 またぐ・・・またぎとなるし、「とう」は「と」をのばしたいい方である。
 「と」とは、「道すじ」とか「みち」をいみすることばであって、「またぎっとう」は、「またぐみち」
 といったような意味であったと思われる。
●辻(ツジ) 四〇二番地。
 辻とは道路が十文字に交叉する所をいう。
 四ツ辻などともいうが、また「道筋」とか、「みちばた」などをいうこともある。
 ここの場合は道路は交叉しているが十文字ではない。
●普賢様(フゲンサマ) むかしは原重雄氏宅の庭にまつっていた。
             
 前は道の交叉する角にあって、何かある時は村民の集まる場所になっていたという。
 普賢様は普賢菩薩のことで、延命の徳があるところから、普賢延命菩薩ともいわれ、普賢講などの結成も
 みられて、民間信仰の中で生長してきたのである。
 この地域に講があったかどうかは不明であるが、普賢菩薩の信仰があったことは分かるのである。
 この普賢様は今は普門寺境内に移されている。
●ばんば(番場) 「ばんば」という地名は各地にある。
 馬場とも書かれる。
 「ばんば」の多くは、競馬場や馬の調教場の馬場からきたものが多い。
 ババがバンバとかわっているのである。
 馬場はもともとは馬を走らせる広揚のことであったが、後には神社、寺院の参道のような、直線的な広場を
 いうことにもなり、さらには単なる広場の意味にも使われるようになってきたのである(松尾俊郎著
 『日本の地名』一四六頁)。
 野辺のバンバは、そのいずれのババをさすのかは問題であるが、ババの原義が馬を走らせる広場、調教場で
 あったということを考えると、では誰がそんな馬場の必要があったのかということである。
 隣の小川地区には、馬場を必要としたような有力武士の居館と関連ある地名が多い。
 このバンバの馬場もそれらと共通のものであろうか。

3 寺 中(ジチュウ) 四二八番地〜四六三番地
 JR五日市線東秋留駅に接して、東南に展開している。
 ここに名刹普門寺がある。
 普門寺は神護山と号し、臨済宗で、鎌倉の建長寺の末寺である。
 「寺中」の地名はこの「普門寺の中」ということであろう。
 ただ「境内の中」というより「普門寺の周辺」というような意味に解したい。
●藍染川(アイゾメガワ) 普門寺の裏側を小さい堀が流れている。
 この流れが藍梁川である。
 『武蔵名勝図会』は普門寺の境内から清水が湧き出している様を叙して、普門寺境内悉く杉林にして、背後は
 二宮の社地なる丘陵ありて、その澗谷より湧き出して、沼地という杉林の所々よりも水出でて四時絶えること
 なく、当村内の水田に注ぎ、隣邑小川村へ流れ入り、又、田圃に掛かり、その下流は小川村の地にて玉川
 へ落ち入る(慶友社版、四二三頁)。
 としている。
 しかし、今は杉木立も若木であるし湧水も少なくなった。
 川の名の由来について『新編武蔵風土記稿』は、「水色うす藍の芭なるゆへ藍そめの名あり」として、川の名
 は、水の色が、「うす藍」だからとしている。
 秋川市の伝説(『秋川市の文化財』八)の「あい染川」にも、この説をとりあげている。
 さらに同書は、坊さんが、この川で衣を洗濯したら、あい色に染まったので、あい染川というようになった
 ともいう(二七頁)。
 とあり、調査の聞書では、名もない坊さんは弘法大師になっている。
 いずれにしてもこの川と、藍の染色とが何か関連あったことをうかがわせる。
 農家の自家用の衣料をここでまとめて、染色したのか、あるいは何か職人の集団でも定着していて染色の
 業に従ったものであろうか。
 いずれにしても定かではないが、強いて付会すれば、二宮城の主あたりが、染色に従う職人をまとめて、この
 普門寺の近くにでも住まわせていたものであろうか。





以上の出典は、あきる野市東部図書館エル所蔵の「秋川市地名考」より



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